社会福祉法人シナプス 埼玉精神神経センター

患者さんの声

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患者さんの声

患者さんやご家族から寄せられた”声”を掲載させていただいております。
(ホームページへの掲載はご本人さまの同意をいただいております)

お手紙(原文のまま)

丸木雄一先生へ

拝啓
新緑の候、ますますご壮健のこととお喜び申し上げます。
丸木先生には、主人が大変お世話になりました。
一年半の長きに渡り、とても親身に診察治療をして下さり誠に有難うございました。
主人がALSという大変厳しい病気に罹患してしまい、私は目の前が真っ黒になる思いでしたが先生に診ていただけているという事で、とても救われました。
先生のお言葉、お気遣いには感謝してもしきれません。
また主人も温かい先生や、いつも明るく声をかけて下さる看護師の方々に囲まれ、幸せな療養生活を送れたと思います。
今でも私の選択や主人への介護は正しかったか悩む日々ですが、この二年半を振り返り、主人の病気に携さわって下さった全ての方々温かさ、やさしさに触れられた事で、二人とも笑顔で病気に立ち向うことが出来ました。

本来でしたら直接お会いしてお礼を申し上げなくてはならない所ですが、いつも大変お忙しいお姿を拝見しておりましたのでお時間をいただくのは恐縮と思いお手紙にてお伝えしようと思いました。
先生のような優秀な方に診ていただき、あらためて心より厚くお礼申し上げます。
先生のますますのご活躍をお祈りいたします。
略儀ながら書中をもちまして御礼まで

かしこ

令和元年五月六日

岡見芳林様の手記

皆様、こんにちは。岡見芳林と申します。出身地は茨城県です。地元に、安心してケアを受けることができる施設が無く、姉が埼玉県に住んでいることで、知人を通し、埼玉精神神経センターにお世話になっております。
発病は46歳のときで、闘病生活10年になります。人工呼吸器を装着して6年になります。本日、埼玉精神神経センターで同じ病気で戦っている方々の代表として参加させていただいております。私の入院人工呼吸器の現状を、お話させていただきます。

今年の7月でこちらのセンターに来て丸6年目になります。
発病してから、私は延命治療を受けることを拒んでいたため、専門の病院にも行かず、在宅療養をしていました。
ある人の勧めで一人の中国の先生と出会いました。
先生には私の病名を伝え、診察を始めると、私の爪を見るなりこれはALSとは違うといわれました。念のためALSかどうか調べるといわれ、注射を頚椎の右脇に打たれ、怖くて生きた心地がしませんでした。

とりあえず、漢方薬を飲んだり、貼ったりしましたが効果は現れず、今度は中国の天津の病院で治療をして見ましょうと言うことになりました。
天津の病院は失礼ながら、40年前の日本の病院の姿を見ているようでした。
レントゲンを取るときも、この機械で写るのか心配になったり、心電図にいたっては吸盤が4個も付いていないのに全くお構いなし。

治療といえば、ブドウ糖液・生理食塩水・脳神経成長の素の注射・アミノ酸30g・中国式マッサージ・各種の漢方薬・そして主な治療は針でした。インターネットを通じ、韓国からリルテックも買い求め、医師の許可無く内服しておりました。
藁おもすがる思いで、頼れるものには、全て縋ってきました。

50歳の時、トイレで倒れ約15分間の心肺停止の状態となり、かかりつけの医師によって救命措置をしていただき一命を取り留め、救急病院へ運ばれました。そこでの医師の第一声は「どうしますか?」だったそうです。このまま死なせるか、それとも植物人間になるか。2択からの選択を迫られ、家族は後者の方をお願いしました。

10日目の朝、あまりの苦しさに目が覚めました。口には酸素吸入のチュウブが絆創膏でベタベタに固定してありました。家族から事情を説明してもらい、自分が今救急病院のICUに入っていることを知りました。口からの酸素吸入のチュウブはいつまでも装着していることができないので、気管を切開をするように勧められました。しかし、自分としては延命治療を拒む傍ら、楽になりたい気持ちからモルヒネ、モルヒネと言葉を発せられなかったので、心の中でずっと叫んでいました。
時間の猶予もなく、家族の言われるがままに気管切開を承諾しました。
その時は楽になりましたが、私の自発呼吸と、呼吸器が合わなく、呼吸器はピーピーとなり続け、看護師やヘルパーさんにうるさがれました。ICUに入っているため、タンの吸引をしてもらいたくてもナースコールは無く、歯軋りをして合図を送っているにも拘らず、気づいてもらえませんでした。そのうち左側を向き続けていた為、呼吸ができなくなり気が付いたときには酸素ボンベがあり副院長が内視鏡を使ってタンを取り出していました。これが2度目の心肺停止だったようです。
この病院で初めてのALS患者だったため、不慣れな点も多々あったようです。
私も延命治療を拒むがゆえに、病気に対する知識は皆無の状態で2度も心配停止を体験しました。私のようにならないためにも専門医の診察を早めに受ける事をお勧めします。

ここの病院では長期入院を拒否され、他の病院を探すように言われ、埼玉精神神経センターで平成12年7月21日よりお世話になることとなりました。
私がこの病院に来て感じた事をお話させていただきます。

① 私の自発呼吸と呼吸器がぴったり一致しているために呼吸器の警報アラームが鳴らないこと、前の病院と比べ、呼吸器の大きさは半分になり、あまりのコンパクトさに驚きました。ちなみに、前の病院のメーカーは【シーメンス】でした。そして、3年前に【フジRCのPLV】から【東機貿のニューポートHT50】に変わり、私の場合呼吸器を変えることによって、より一層調子良く、使わせていただいております。しかし、中には【フジRC】の方が良いという患者さんもいるようで、呼吸器にも個々によって好みがあるようです。大きさ・重量は【フジRC】の半分です。

病院では毎日人工呼吸器の設定チェックを一日に三回行っております。カニューレとフレックスチュウブが浮いたり、外れないようにピンクの紐でしっかり縛っています。

② アンビュウバック、文字盤、体向枕の存在も初めて知りました。

アンビュウは、苦しくなったとき人工呼吸器を外し、アンビュウで手動で空気を送り込んだり、タンのきれが悪かったときに使うと楽になります。また、入浴時にもアンビュウを使いながら入浴をしています。
③ 入浴は週2回、1人の入浴につき、2・3人のスタッフの介助によって行われています。

清拭とはちがって、垢すりで全身を洗ってもらったり、シャンプーをしてもらったりして、仕上げにたっぷりのお湯を十二分にかけてもらいます。すっきり爽やかな気分でベットに戻ってきます。週に2回も入れることは、お風呂好きの私にとって、とてもありがたいと思っております。

④ ナースコールの対応も早く、最初の頃は足を動かしてナースコールのスイッチを押していました。足が駄目になってからは、かろうじて動く額と眉の間にスイッチを作っていただき今日に至っています。

⑤ こちらの病院では、歯科口腔外科があります。歯が痛み出したので、丸木先生にお話しした所、歯科の先生を紹介していただき虫歯の治療をお願いしました。ところが虫歯だと思っていた歯の痛みは、根に問題があり歯の根の治療をしてくださいました。あまり口が開けられないので、開口器を使っての治療となりました。2週間に一度の治療を約1年かけて治して頂きました。藤堂先生、スタッフの皆さん、おかげ様で、今では歯の痛みはなくなり、歯は丈夫です。本当に感謝しています。

⑥前の病院ではリハビリといっても左右の手足の指先をちょいと触るだけで、ほんの2分くらいで終わりという感じでした。
2ヶ月以上入院していた中でのリハビリは合わせて1週間程度というものでした。

しかし、この病院に転院してから本当のリハビリを知りました。
リハビリは週2回で、1回はリハビリ室で、もう1回は病室のベッド上で行います。

リハビリ室でのリハビリは手足を動かすことから始まり、指先を動かしたり、足の開脚などがあり中でもリハビリ室のベッドを床と垂直に立ち上げてもらうリハビリはあたかも自分の足で地に足を付いている心地になり、この快感はベッドで横になっているもの以外にはわからないと思います。

時間的な問題からリハビリ室でのリハビリは1週間に1度ですがもう少しできたらなという願望を持っています。リハビリ室へは車椅子に乗って行くのですが、まず病室のベッドの上にいる私を病棟の看護師さんが3人がかりで車椅子に乗せてくれ、車椅子に乗って5階の病室から6階のリハビリ室まで行くと先生方が4人くらいで車椅子からベットへうつしていただき、またリハビリが終わると再びベットから車椅子に乗せていただきます。車椅子からの乗り降りやベットへの移動が自力でできないので先生方に毎回ご迷惑をお掛けしていて忍びなく思っています病室のベッド上でのリハビリはリハビリ室でベッドを垂直に立ち上げること以外のことをしています。

⑦ここの病院の特徴でしょうか、毎月1回床屋さんが来て2000円というボランティア価格で散髪をお願いできます。

⑧この病院に来たばかりの頃は鼻から胃までチュウブを挿入して食事の注入をしていました。しかしチュウブを交換するときの痛さやチュウブをつけているときのわずらわしさから」イロウをつくることになりました。おかげさまで栄養が行き渡り青白かった顔も健康色になりやせ細った体も以前より太り今ではお風呂の時やリハビリの時スタッフの皆さんに負担をかけています。

⑨私の知人が見舞いに来ると必ず「岡見、ここはホテルみたいにきれいで病院という感じがしないね」といいます。

私の病室は5階の東側の4人部屋です。大きなガラスを多用した光の差し込む設計となっており、気持ちの面からも明るくなります。
待合室も広く、家族や面会の方々もゆっくりくつろぐことができるスペースで、いつも笑顔が溢れている場所となっています。

ここからの眺めは素晴らしく大宮ソニックシティや埼玉スーパーアリーナもよく見えます。逆に西側の部屋では、晴れた日には、美しい夕焼けと共に、遠くの富士山までもが望むことができる、まるで絵画のような絶景が映し出されます。

どちら側の部屋でも、四季の移り変わりをベッド上にいながらにして楽しむことができます。
4月に入りましてすぐに桜が咲き出し春の訪れを目の当たりにし、5月には樹木の葉も青々と繁り、雨にうたれた青葉、若葉の緑も深みを増して目に飛び込んできます。自然の移り変わりは、私たちの心の癒しとなっております。

私が今日このような場所で発表できるのも、この病院へ転院してきたことがきっかけです。
こちらの病院に来てからも、考えることは元気だった頃の私の姿でした。今の私を受け入れることは、その頃の私にはできず、【今日も生きている。苦しまずに死ねたらなぁ…】と‘安楽死’のことばかり考えていました。
そんな時、同じ病気で戦っていた同室の伊東さんに出会いました。
伝の心で書かれた伊東さんからのお手紙で私は、心から救われました。すぐにリハビリの先生に伝の心の使い方を教わり、私の精一杯の感謝の気持ちを一枚の紙に託しました。以降、伊東さんからお手紙を度々頂き、手紙を頂くことを心待ちする自分がいました。また、病気に負けそうなとき何度も私に手を差し伸べてくれました。私にとってALSのカリスマ的存在であり、命の恩人と言っても過言ではありません。しかし、伊東さんは4ヶ月前にこの世を旅立ちました。伊東さんが苦しいときに何もしてあげられなかった自分が今では悔しく思っています。私は伊東さんのように人の心を動かすことは、できそうにありませんが、自分にできると思われることは、積極時に取り組んで行きたいと思います。

この病院で、伊東さん以外にも、同じ病気で戦っている仲間に出会うことができ、お互いのベットを行ったり来たりしてコミュニケーションを図っています。
出会いがあれば別れもあります。ですが、今の仲間に出会えたことは、わたしの心の支えとなっています。

病院では9時消灯です。私はF1が大好きで放送を楽しみにしています。ただ、F1の放送は夜の11時ごろから開始されることが多く、直接みることができません。そのようなときはビデオを予約録画して翌日見ています。

そのほかのテレビ番組では、口からたべることができないせいか料理番組をよく見ています。とくにどっちの料理ショーなどが好きです。またお笑い番組も見ています。病院では、イヤフォンを使っています。一人で笑っているので時々介護の人に怪訝な顔をされることがあります。

年に1-2回は、実家へ5泊6日の外泊で帰っています。帰るまでが楽しみで実家へ帰ってしまうと病院へ戻る時が来ることが怖くて、喜びも半分になってしまいます。実家に帰った時は、元の職場のみなさんや学生時代の友達など入れ替わり立ち代り遊びに来てくれて楽しいひと時を過ごせます。

実家にいるときは家族が夜中も誰かがおきていてくれています。病院にいるときは、夜は病院の皆様に面倒をみていただいているので、家族も安心して夜は自分の時間を過ごしているようです。

皆さんは、藤本栄さんと言う方をご存知でしょうか?
【人工呼吸器は延命機器ではありません。生活必需品です。近視の方が掛けるメガネと一緒なのです。】これは2005年12月26日にALS協会から発行された冊子の一部を抜粋させていただきました。
私にはない発想にとても驚かされました。逆転の発想は、病気と向き合い共存することのできるきっかけになるのではないかと思います。
年月を経て分かったことですが、恵まれた環境にいるからこそ心穏やかに日々を過ごすことができています。同じ悩みを持つものにしか解らない痛みがあります。今の社会は他人を信用することや、共感しあうことがとても難しくなっています。しかし私たちは違います。私達はALSと戦い、共に障害を乗り越え、苦しみも、喜びも分かち合っていける仲間です。私も皆さんも一人ではありません。私達はその輪を少しずつ外に広げ地域や社会にもそうした世界を実現するために、力を尽くしていきましょう。

M・O様の手記

こんにちは、M・Oです。この文章は私が初めて伝の心(意思伝達装置)で書いた文章です。 よろしくお願いします。
ALSと診断されて4年、異変を感じたのは8年前、左肩を上げると痛いので五十肩かと思いました。 約3年放置、5年前より10カ月接骨院に、整体に週2回約3ヶ月通院するも良くなりませんでした。 2013年5月、神経の病院へ行き、検査をすると「骨には異常がない」と言われます。 医師からは「あなたみたいな人は見たことがない」といわれ、◯◯病院を紹介され、受診すると簡単な検査をして[運動ニューロン病]と告げられました。 何だか分からないまま家に戻り、ネットで調べてもらうと末期がんと一緒とのこと。 その後、精密検査をし[筋萎縮性側索硬化症]と診断されました。
診断書を、妻が保健所へ出すと筋萎縮性側索硬化症の患者交流会があることを知りました。お薬はビタミンB12、ビタミンE、リルゾールを処方され、月1回の通院をしました。診断より2ヶ月後会社を退職、その後障害者手帳が届きます。 2014年1月より、数回患者交流会に参加すると、5年~7年で亡くなってしまうと聞きました。
以前の病院では、リハビリとエダラボンなどの点滴がなく、埼玉精神神経センターの丸木医師を紹介してもらいました。その後保健所の担当者よりケアマネージャーさんを紹介され、市役所に面談、約3年前より神経センターへ移りました。 週2回通院し保険適用外のエダラボンの点滴を開始しました。
2015年1月よりリハビリを開始し、週2回の治療を受けました。3月には介護認定を受け、要介護3をもらいました。その後マッサージの人に家まで来ていただき、マッサージを受け続けました。 6月にALS総会に参加し、治験薬があることを知り、4ヶ月後に11日間入院し治療が始まりました。治験薬は、連続10回するので通院は無理なので訪問看護ステーションを依頼しました。 要介護3を受けてから1年後に要介護4になり、このころから足の筋肉が衰え、階段で危ないことがありました。2階の自室を諦め1階で生活、介護ベッドを使用し始めました。 その後、呼吸補助バイパップを夜のみ使用するようになりましたが、徐々に手の動きが悪くなり、9月下旬に体調が悪化し夜間に入院しました。 翌日トイレに行くため、廊下で倒れ頭を打ちましたがCTで異常がないといわれます。その後胃瘻造設の手術をして、そのまま長期入院となりました。 2017年2月、バイパップを装着しても呼吸が苦しくなり、意識がなくなりました。この時サチュレーションが54%になったとあとで妻に聞きました。翌日気管切開の手術をし、この日より呼吸器がつきました。
入院中、テレビでALSのことを放送していました。ALSやパーキンソン病がiPS細胞で治る可能性があり、臨床試験が10年以内に始まり、20年以内に実用化するとのこと。私は厳しいと思いますが、これからの人達は治る可能性があるのです。
現在、カニューレが2週間に1回、尿道バルーンが1ヶ月に1回、胃瘻チューブが3ヶ月に1回交換があります。39.5℃の熱を出し、抗生剤の投与をしたこともありました。 2017年9月で寝たきり1年になりました。 2017年10月8日の誕生日で65歳になり高齢者の仲間入りになりました。 妻と娘には通院と入院で300回以上通ってもらっていて、迷惑をかけてしまっています。 感謝しています。